「清沢満之信仰座談」
わたくしは20歳代で次の2冊の書に眼を開かれたのです。その1は三浦修吾先生の『学校教師論』、その2は「安藤洲一編の『清沢満之信仰座談』でした。
清沢満之の「人間生きてる限り、仏か仏飯を給せられる。但しそれは金殿玉楼においてか、茶屋においてか、はたまた獄裡においてかの差あるのみ」の一語は、いまなお味わい深い」一語です。
「終生の師」
何ゆえ人は、師を求め師に就かねばならぬのでしょうか?それは「真理というものは、単なる書物だけでは伝わらぬ」ということからくるのです。
それというのも、まことの真理というものは、単に平面的な知的観念的なものではなくて、生きた人格の中に脈打ち、活溌溌地に生きてはたらいている動的具体的な叡智だからです。その点、単なる書物学問と、師という生きた一人格に就くのとでは、まさに天地のひらきがあるといってもよいでしょう。
「日本人的哲学」
「全一学」というのは、わかりやすく申せば、日本人としての自覚に立った場合の「哲学」のことで、従って「全一学」という特殊な学問はなく、いわんや私が今度の『続全集』に収める「全一学的教育学」など「全一的」と名づけたもののみでないのはもちろん、「創造の形而上学」にせよ『情念の形而上学』にせよ、私の書いたようなものでなければ、「全一学」でない--------などと考えられるとしたら、これほど大きな誤解はないわけです。
「若き俊秀」
ヤングと称される人々の中には、明治以後、ちょっと見いだされないほどの新しいタイプの卓れた俊秀がボツボツ出現しつつあるんじゃあないかということです。
そしてそれらの若き俊秀の中には、われらの民族の歴史でかつて「武士道」という形態で出現したような、自らの目標に向かって全自己を賭けて投入しつつある凛然たる気迫をもった若者たちが、チラホラとあちこちに出現しつつあるんじゃあないかという感がしだしたのです。
「劣等感をふみすえて」
若い人たちは、その青年期の一時期に、多少の劣等感を抱くくらいのほうが、かえってたのもしいと思うほどです。
けれども、もちろんそれは、やがて発奮して志を立て、そのような劣等感を脚下にふみすえて、雄々しく起ちあがることを予想してのことであることは、申すまでもありません。わたくしはむしろ人生の一時期に、劣等感におそわれないような人間は、たいしたものになれないと考えるのです。
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